夜逃げ

「今日バイトだったがこれは首だな」とスキットルに入ったウィスキーをコクリコクリと飲みながら、Googleマップを見ては人間が本来移動し得ない距離をものすごいスピードで移動する青い点をみてニタニタと笑っている。私は青い点が動くことの何が楽しい、と吐き捨て車窓をものすごいスピードで過ぎ去る電柱やら樹木やらを眺めた。一目惚れは狙ってするものだ、戦う準備は前世で終わらせておけ、文章は白紙の状態が最も美しい、だとか空々しい台詞を一方的に語られ、私は「ああ」とか「うう」とか適当な相槌をしていた。

全治二秒

私がまだ芸人になろうと仕事を辞めて二日目の夜のこと、ゴールデン街で泥酔してラーメンズバナナマンの魅力やら嫉妬やらをごちゃ混ぜにしたものを友人に一方的に投げ続ける悪行をしていると、バーテンさんがラーメンズが好きな人いるよと、小柄な女性を紹介してくれた。恐らく私よりも年齢はひと回り上で、小柄でショートヘアに整った顔で両耳にはイヤリングが煌めいていた。と言っても立ち上がるだけで、足元がふらつくほどにアルコールが回っていたために、その正誤は不確か今目の前に現れても気付けない程度には酩酊していた。その夜は幸せすぎてほとんど泣きそうになりながら話していた。彼女は女神に見えて、目を逸らさない人だった。普段であれば人の目を見ることを何よりも嫌うが酔いも手伝ってか私からは絶対に目を逸らさなかった。目が逸せないほどに幸せの渦中にいた。幸せの瞬間は来た時にわかるものだ。気がつくと互いの肩に手を乗せ合うほどに白熱していた。その夜のことが忘れられなくて、いまだにゴールデン街に気まぐれに顔を出してみるが、その後楽しかった記憶は一度もない。

私はいつの間にかゴールデン街には行かなくなって、コントを見なくなって、お笑い鑑賞を趣味だと言うまでに堕落した。私にとっての永遠があるのならば、きっとその夜が永遠だった。

金木犀という名の惑星

或る初秋の候、ドアを開けると朝霧が立ち込めていた。誰もが寝静まっている時間に霧の中にポツネンと佇んでいると、世界で私一人だけ起きているような気がした。霧と月を撮ってみたが、アイフォンに搭載されているカメラではどちらもうまく撮れなかった。アイフォンは霧も月もうまく撮れない出来損ないのままでいて欲しい、そんなことを思案し歩いていると職場に着いた。コックコートに着替えてタイムカードを切る。ジジッと音が鳴り04:45と刻印される。粉、塩、イースト、水を順番に入れて安全カバーをしてボタンを押しミキサーを回すと、ゴインゴインと試合開始のゴングのようにフロアに音が響き渡った。パン屋の朝は早い。7時になり星川さんと佐藤さんが出勤してきたので、窓を開け放つと店の裏に群生している金木犀の香りが入ってきた。

閏年があると4年毎に1日増えるよね、700年経ったら夏が冬に、冬が夏になるよ!」

早朝から天真爛漫を装った星川さんの可笑しな声がサンド台から聞こえてくる。また阿呆なこと言っとるわ、と佐藤さんが私にだけ聞こえる声で笑う。私は捏ねあがった生地をバットに流し込みながら、秋に桜が咲いて春に金木犀が香りますね、と適当な相槌をうった。

「それいいね金木犀見ながらお花見しようよ!」

その頃には724歳か、と佐藤さんは笑う。西暦2722年ですねと私も笑った。そうして私たちはパンを捏ねたり、焼いたり、挟んだりしながら700年後の約束をした。

蚤の市

蚤の市は初夏の芝生の上で日差しに首元を焼かれながら古本を吟味していたところ、帽子と日傘で完全武装した女性が近づいてきて私の手元から本を奪い取りレジへ向かった。横暴な人間がいたものだと逃げ出そうとすると彼女は私の前に立ち塞がり先ほど購入したばかりの本を私の胸元にぐいと押し付け「芸人になれよ」と私に言い放ちました。寸秒、落涙したと錯覚したが内界を悟られまいと恬然とした素振りで、てめえだれだよ、と本を橋の下に投げ捨てた。すると彼女は私の言葉など意に介さず一瞬の躊躇いもなく川へ飛び込んだ。何が何だかわからなくなってが一粒だけ落涙した。

無論全ては捏ち上げた嘘の話であるが、要するにそろそろ何かしないといけませんなとね。買ってくれてありがとねと。

深夜二時に於ける分水嶺

或る夏の記憶である。年齢も性格も何もかもが違う。職場が同じと言う共通点のみで四人は集まり、終電を逃し、花火をした。うち一人は翌日に引っ越しを控えていた。

もう四人で集まることはないという予感の元「また集まろうね」だとか「もっと早く集まれば良かったね」だなんて言葉を並べながら迸る火花を眺めた。

幸福を引き伸ばした毎日が続くなか、極稀に幸福を凝縮したような瞬間が訪れる。その日はそんな瞬間だった。そんな瞬間は終電を逃していたり、豪雨だったり、廃屋だったり、金銭的に酷く逼迫していたりと、どこか圧倒的に破綻していることが多い。そして、得手して真夜中であるのは私だけだろうか。

深夜二時、公園と境内の狭間で、喇叭飲みで酒を回し、花火の残骸を空き缶に押し込み、アイスを買って解散した。

中央線快速東京行き

 麗らかな日和に誘われ東京行きの電車に乗り込こむ四月。前日の豪雨に見舞われ、桜の散った春を眺め、「四月は最も残酷な月」という古来の詩人の言葉を思い浮かべた。

 私は左端の席を確保し、隣に女子高生が座っている。彼女のリュックにはストラップが三つ。パンダが3頭揺れている。白と黒のシンプルな配色にも関わらず、各々表情が全く違うのが奇妙だった。世界線の違うパンダを無理矢理一纏めにしてしまった愚かな奇妙さである。

 暫く電車に揺られていると、荻窪駅で品の良い老婦が乗って来た。女子高生は立ち上がり席を譲る。「ありがとう」と席に腰掛け老婦は徐にグレージュ色のトートバッグを漁る。一冊の本を取り出し、生活の役に立ててくださいと優しい口調で微笑んだ。その冊子には「あなたに幸福を」と書かれていた。

 気が付けば隣で宗教の勧誘が始まっていた。4駅分、約十分かけてじっくり丁寧な誘いを、女子高生は完璧な笑みを貼り付け黙って聞いていた。

 女子高生の笑みの向こうを覗こうとすると、笑顔を残したまま睨み返された。そんな気がした。私は逃げるようにして新宿駅で降りた。

宮川に抛つ

ある男が安い居酒屋を見つけたと言って私をサイゼリヤに連れて行った。

男は明日世界が終わるかのような勢いで、浴びるように鯨飲する。事実、手元の見当が狂って服は酒塗れである。私は店員に謝りながら店を出た。会計は二万を超えて、全く安くなかった。

その時点で終電は完全に逃していたので、男の家に泊まるしかなく、仕方なく介抱しながら帰路につく。私が少し目を離していると、川面からドボドボという音が聞こえてきた。振り返ると男は小便をしていた。すぐ行くからと爆笑しながら顔だけこちらに向ける。

私は溜息をつき、早よしろよ、言うと川面から、ボチャン!と魚の跳ねるような音が聞こえた。

男は血相を変えて、鍵を落とした!と止まらぬ尿をドボドボ垂らしながら叫ぶ。こんなにも惨めで愚かな人間に、私は笑うしかなかった。

男は素早くズボンを締め靴を脱ぎ捨て柵に手をかけた。私は意味が分からなかった。次の瞬間5メートルほどの高さから男は飛び込んでいた。恐らく本人も想定してない、殆ど反射的行為だろう。男はうわぁ!と叫びながら落ちてゆく。キーケースを落とした音よりも遥かに壮大な音が、ぼんやりした頭に響く。私はあまりに突然のことに声も出ず立ち尽くしていた。

結局鍵は見つからずに、全身びしょ濡れ、片足を引き摺り男は陸に上がって来た。怪我したと言って深い切り傷を見せ、また爆笑している。醜くも厳然と佇む姿に本当に明日世界が終わるのかもしれないと思った。